父は、都合のよい時だけ「心臓が弱い」「体調が悪い」と口にし、母の介護から距離を置いているように見えました。
いわゆる「介護を支えているように見えながら、実際の負担は引き受けていない」という状態の、もう一つの意味でのステルス介護です。
しかし、認知症の母を私ひとりで支え続けることには、明らかな限界がありました。
これは、そんな父を母の介護に「参加させる」までの、我が家の記録です。
自分は母にしてもらっているくせに⋯
父が倒れた後、母と私が「支える側」になっていく一方で、介護の役割は大きく偏っていきました。
父が心筋梗塞で心筋の7割を壊死させた後、家の役割は大きく変わりました。
毎日の布団の上げ下げや風呂掃除は母が担い、精米や通院の付き添い、車での移動は私の役目になりました。
以前は父が買いに行っていた風呂用の灯油も、体に負担をかけないよう、お店の方にお願いして自宅まで配達してもらいました。
父は回復し、重いものを持たなければ普通の生活が送れるようになり、やがて多少重いものも持てるようになりました。
7年目にヘルニアで入院した際には、リハビリの中で小走りができるほどまで回復していました。
その一方で、母は父を心身ともに支え続け、やがて認知症と診断され、症状は徐々に進行していきました。
しかし父は、母の介護に積極的に関わろうとはしませんでした。
和室に籠もって出てこない父を引っ張り出す
母の失敗を前にしても動かない父の姿に、私は初めて本気で向き合う決意をしました。
ある日、母がトイレに行き忘れ、居間の座椅子の上で失禁しました。
私が母をトイレに連れて行き、便座に座らせ、その間に居間と座椅子を掃除し、窓を開けて換気をし、廊下にこぼれた尿を拭き取っていました。
その間、トイレのすぐ隣の和室にいる父は、扉を閉めたままでした。
普通なら、これだけ騒がしければ気になって様子を見に来るはずです。
けれど父は、知らん顔をしていました。
あまりに腹が立ち、すべてが落ち着いた後、私は父のいる和室の扉を乱暴に開けました。
「さっき、母さんが居間でおしっこを漏らして、始末が大変だったん」
父は一瞬驚いた表情を見せましたが、「え? ああ、そうなの」と、どこか他人事のような返事をしました。
「これだけ騒いで聞こえなかったって、おかしくない?」
「補聴器つけてるやろ?」
父は、「クロスワードを解くのに夢中になっていて、気が付かんかった」と言いました。
「もし、私や母さんが助けを呼んでいても、クロスワードに夢中なら、聞こえなくてもいいんか?」
普段あまり怒ることのない私の怒りが尋常ではなかったのか、父はすぐに音を上げました。
それでも私は続けました。
「他人事みたいな言い方やけど、母さんの介護についてどう思っとる?」
「今は私ひとりでやりよる。けど、私ひとりじゃどうしようもないこともある。この状況をどう思っとるん?」
父はしばらく考え、「あなたが介護が難しいなら、施設に入ってもらってもいい」と言いました。
私「施設に入れて、どうするん?」
父「毎日、お見舞いに行く」
その言葉を聞いた瞬間、私の怒りは爆発しました。
「私が理由で母さんを施設に入れるんか?」
「自分は母さんに何をしてあげた?」
「介護も何もせんで母さんを施設に放り込んで、無責任もほどがある!」
父は黙り込み、しばらくうつむいていました。
「手伝いたいとは思っとる。でも、どうしていいか分からんのや……」
モグリの介護人(私)の弟子になった父
「分からない」を理由にさせないため、私は父を「介護の現場」に立たせることを選びました。
「ヘルパーの資格はどうした?」
父は、以前ヘルパー2級の資格を取得していました。
「言われたらできるけど……どのタイミングで何をしたらいいか、わからん。」
私は介護職の資格を一つも持っていません。
それでも、目の前の状況に対して、咄嗟にやるべきことや危険を察知しながら、母の介護を続けてきました。
それ以来、「分かっているはず」「気づくはず」という期待を、私は手放しました。
してほしいことは、曖昧にせず、具体的に言葉にして伝え、できたら褒める。
うまくいかなかった時は、「指示が曖昧だった」「手順が多すぎた」「急がせすぎたかもしれない」と振り返り、次に活かす。
家庭内介護のPDCAサイクルを回し始めたのです。
あれから4年近くが経ち、父は今では立派な介護の担い手になりました。
時々トンチンカンな行動を取ることもありますが、父に世話をされている母が嬉しそうにしている姿を見ることは、私にとっても幸せな時間です。
「これ、ウチのことかも?」と思った方へ。
負担がどこに偏っているのかを見える化するための、簡単なチェックリストも作りました。
▶ ステルス介護かもしれないと感じたら:
がんばりすぎ介護さんのための「一人で抱え込んでいないか」チェックリスト

